祭の歴史

五所神社例大祭回想

百年の時空(とき)。
今、そして未来へ。想いを繋げる。

約二世紀前の職人の手により創建された三基の神輿が、子気味のいい子供たちのお囃子に合わせ、海街鎌倉材木座の町を伝統の天王唄と勇ましい湘南ドッコイの唄い声で練り歩く。男たちの担ぐ額の汗がキラキラと日差しに照らされ輝きを見せる時、鎌倉の夏が訪れます。

古来、五所神社の例大祭は天王祭といい、七月七日の早朝に例大祭、昼より神幸祭(お渡り・上廻)、七月九日は三つ目神楽、そして七月十四日に還幸祭(お渡り・下廻)と八日間執り行われておりました。

  • お渡りの上廻は、左回り(反時計回り)、下廻は、右回り(時計回り)で天王唄を謡いながら町内を渡御します。

    材木座の古参の話によると、当時は七日のお渡り開始から十五日の朝まで、神輿をおろすことなく担ぎっぱなしだったそうです。戦後しばらくは娯楽というものがなく、町の青年団にとってはお祭りが唯一の娯楽。当時の血気盛んな担ぎ手たちは、二番様(神輿庫真中の神輿)を夜通し旧地区全体に担ぎ歩き、鎌倉駅のホームの中まで入ったこともありました。

当時は、お渡りを行うとリヤカーいっぱいにお酒(一升瓶)が積みあがるほどだったそうです。またこの時期、旧鎌倉地区の夏祭りが盛んに行われる日で、隣村の神輿と鉢合わせになると神輿どうしをぶつけ合う喧嘩神輿が始まってしまうこともよくあったと聞かされています。

七月九日は三つ目です。今では神楽(かぐら)を奉納し神輿から御霊を本殿へと奉送頂く日ですが、昔は神様を慰労する日で、神楽を奉納したそうです。

  • また、この日に飯島村(現 小坪)の住吉神社のお神輿をお迎えに行き、境内に一泊させ翌朝送りに行く神事もありました。

    最終日の十四日、還幸祭では神輿を下廻で巡行させました。これは神事の基本である左回りで催事を解放した後、右回りで締めくくるという習わしからです。

    神輿の宮入を拒む青年団は、神輿を海にいれてしまいました。それは、神輿を宮入りさせるために祭りの役員たちが追い立てるからです。神輿を海にいれてしまえば、神社の役員は海に入れず帰ってしまう。当時の役員の衣装が、羽織袴で自前のものだったため、汚してしまうと大変だからです。

    陸に上がれば役員が追いかけてくる。担ぎ手たちは、神輿を担ぎながら海に逃げていく。そんなイタチごっこを繰り返していました。そして十五日の朝には青年団も疲れて、お神輿を宮入させます。これが現在の海上お渡りに変化していきました。

この当時青年団は、お祭りを華やかにするために、赤い襦袢を着て、顔を白くして神輿を担いでいたそうです。この神社に女神をお祀りしているから失礼のないようにするためだったとのこと。この習わしは、今でも視女八坂社の祭礼として、夜に天王唄とともに三番様を巡行し、継承しています。

お渡りを盛り上げる面々

  • 五所和賀会

    昭和五十年代、担ぎ手不足により神輿が上がらないという事態がおこりました。そこで材木座の青年団が声を上げ、存続を救うため発足したのが五所和賀会です。すでに三十余年の歴史を持つ同会は、今も材木座の夏を盛り上げます。近年は一番様を筆頭に二番様を近隣の睦会を招待し、華麗な神輿ぶりを披露しています。

  • 材木座囃子連中

    お囃子はその言葉の通り「囃す」からきており、祭りを賑やかにする役割をしております。笛・太鼓(締太鼓・大胴)・鉦で構成され、例大祭ではおもに「昇殿」「鎌倉」という演目を奏でます。材木座囃子連中は、材木座の郷土芸能でもある「お囃子」を地元の子供達に伝承し、後世に残して行くための活動をしています。また、会員の募集も随時行なっております。

  • 材木座天王唄

    治承四年(1180)、源頼朝が鶴岡八幡宮を造営の際、また建久二年(1191)の再建の際に、その用材が伊勢から海上で運ばれ、和賀江島(材木座・日本最古の港)に陸揚げされ、若宮大路を天王唄を勇ましく謡いながら境内に運ばれたと伝えられています。八百年の長い間廃れることなく今なお天王唄保存会によって愛誦・継承されています。

  • 手古舞

    手古舞とは、神幸行列の露払い。材木座の手古舞は昔ながらの稚児行列で、小学生の氏子女子達が「じゃり棒」と呼ばれる杖をつきながら「シャリーン・シャリーン」と音を奏でながら行進します。八年前よりミス鎌倉を先導に迎え、今年で三十四回目となります。またお稚児さんは毎年4月下旬から5月にかけて公募しています。参加ご希望の方は、材木座囃子連中までお問い合わせください。

  • 山車

    お祭りを彩ることになくてはならないお囃子。材木座囃子連中の子供たちが日ごろの成果を発表する舞台として今もなお現役で活躍する材木座の山車。昇り竜が刻された一木造りの「山車」は、鎌倉市内では現役で使用している中でその歴史はもっとも古く、昭和九年に材木座の職人の手により建造されました。山車の車輪が木製のため、当時お祭りが終わると山車から外され、光明寺の池の中や材木座公会堂の敷地にある防火水槽に沈めて割れを防いだと伝えられています。

  • 猿田彦命

    神幸行列の先頭に天狗のお面をかぶった役が先導するのをよく見ると思いますが、実は天狗ではなく神様。彼は猿田彦命(サルタヒコノカミ)といい、神幸行列を先導する役目。その昔、天孫降臨の際に道案内をしたということから「導きの神」と古来から言い伝えられています。方位除け、家業繁栄、交通安全などのご利益をもつ道祖神。神幸祭の際は、是非お参りください。